8月15日は「終戦の日」ですね。
戦争を直接体験された方が減っている中、戦後のバラックの残っていた風景や、伯父の遺書、経験者の戦争経験談などは、やはり8月にはとても切なく思い出されます。

そして、戦争を美化するかのような発言が多くなった今、体験談を伝える大切さも痛感します。以下引用も含めて長くなると思いますが、お許しください。

色々な戦争にまつわる見聞から疑問に思っていたことが、とても明確に自分の体験のように感じられたのが、「96歳の遺言〜戦争だけはやっちゃダメ」というサイトでした。

この「96歳の遺言」は、中谷 久子さんが、入院中に出会われた、久米 銈さんの体験談を聞き書きされたものです。

久米さん本人の動画

また、そのサイト内に紹介されていた、中谷さんのお兄様の中国での戦争体験記は、とてもリアリティーがあり、疑問が相当に解消できました。

中でも、今なぜ若い方で、日本の戦争を美化する方が多いのかという事への、一つのヒントを得ることができました。小説や劇画などを創作される方に、戦争経験者が減って、創作物として日本を美化した作品が広まることも影響しているだろうと思います。

『96歳の遺言〜戦争だけはやっちゃダメ』は、戦時中の体験談が他にも複数含まれていて、全体が参考になるのですが、中でも「日中戦争の中の青春」は、戦地の状況を直接的な感覚で知る事のできる貴重な体験談です。
(中国語に堪能で、中支派遣特務機関員という諜報の任務についておられた方のため、大変幅広い見聞があります。)

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日中戦争時代――、
戦場の中国で若きスパイとなった男の、せつない物語


元中支派遣陸軍特務機関員  中谷 孝 87歳

ぜひ興味ある目次だけでもリンク元で本文をお読み下さい。
実体験がなければ絶対に書けないし、中国語に堪能だった人ならではの情報と見解が参考になります。

■また一冊の本に、強い危機感を覚えて反論を書かれているため、その本と反論もご紹介します。

□ 新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論
Wikipedia

Amazonで試し読み可能です

  戦争論_小林よしのり

劇画『戦争論」への反論より一部引用
(回想録「日中戦争の中の青春」で、戦争の美化に関して危機感を感じておられます。)

----私自身の戦場体験から作者に反論したい。
著者は「シナ事変で日本軍は立派に戦った。残虐行為はしていない」という。そんなキレイ事が信じられるだろうか。古今東西歴史上残虐行為の行われない戦争など一度だってあったためしはない。そして捕虜虐待は今もイラクで問題になっている。どこの国の軍隊も戦場では異常な狂気に陥りやすいのだ。

私は中国の戦場で、兵士ではなく軍嘱託(民間人扱い)の特務機関員だった。軍隊の作戦後に治安維持や行政回復をはかる任務についていたから、その中で多くの事例をこの目で見てきた。

その一つは、昭和16年春の、第3次寿県城攻略戦での捕虜虐殺である。敵は勇猛で知られる広西省の山岳民族からなる部隊で、激しい抵抗を受けた。早暁から午後までかかってようやく城内に突入。大半の敵は乾季の川を渡って逃げたが、最後まで城壁の上から反撃していた勇敢な部隊が逃げ遅れた。彼らはキリスト教会の病院に逃げ込み軍服を捨てて住民にまぎれた。アメリカ人宣教師は彼らをかくまったが、言葉のなまりがあまりにも違うので、日本軍は住民の中から敵兵13名を引きずり出した。

2日後の夕刻、「これから埠頭で捕虜を斬りますから、見に来ませんか」と、部隊の者に呼ばれた。

見に行くと、13人が埠頭に座らせられていた。そのうち3人は、軍刀で首を刎ねられ、10人は銃剣で突かれ川に落とされた。

近くの小船に潜んでいた老婆まで「現場を見られたから殺せ」と中隊長が言ったが、「その前に住民に見られているのだから、老婆一人殺しても意味はない」と、私はそれだけはとめた。

私はその後すぐ平気で夕食をとった。目玉焼きなど他人の分までたっぷり食べたことをなぜか鮮明に記憶している。64年も前の夕食のメニューを覚えていること自体が異常である。捕虜虐殺を間近にみた事が、心に重くのしかかってきたのはしばらく経ってからのことで、あの日の自分の神経は普通ではなかったと思う。激しい殺し合いの中では、人間は普通ではいられなくなるものなのだ。

先日、卒寿を過ぎてなお元気な戦友を久しぶりに訪ねた。杉山照次さんは、シナ事変開戦直後に宣撫班員となった人で、その後改編された特務機関に敗戦まで勤めたベテラン機関員である。

あらためて南京戦の話を聴いた。昭和13年3月、彼は宣撫班長西田祥実大佐指揮の下、占領後3ヶ月の南京の下関(シャークワン)埠頭から、揚子江対岸の浦口(プーカオ)に向かった。

小型フェリーはおびただしい死体が浮かぶ中を掻き分けて進んだそうである。

この話には思い当たることがある。特務機関の同僚だった戦友、菅野孝禅さんが兵隊だったとき、南京戦で揚子江に突き出した潅木林に1万人近い捕虜を集め周りから火をかけて焼き殺したと言う。

火から逃れる道は河しかない。多くの人が12月の河に飛び込んだ。

3月と言えば厳寒期に沈んだ遺体がゆっくり浮き上がる頃ではないだろうか?

二つの証言は一致するように思えてならない。


日本軍が捕虜を丁重に扱っていたのは第1次世界大戦までだった。

シナ事変からは武士道精神までが失われ、捕虜虐殺は日常化していた。

小林氏(劇画の作者)は南京大虐殺は無かったとして、当時の新聞写真を並べているが、当時、新聞に報道の自由などあった筈がない。占領直後の南京市内の平和な風景こそがでっち上げである。どこの城内でも占領後しばらくは軍靴の音のみで、静寂に包まれ、街を歩く人影は全くなかった。そんな街に露店が並ぶ筈はない。そんな写真を南京平和占領の証拠にしている。

南京城内に残留していた欧米の外交官、新聞記者、宣教師たちが、日本軍の行為を打電した為、諸外国から激しい非難を浴びた。

そのニュースが国内に広がるのを恐れて厳重な報道管制を敷き、嘘の平和風景が繰り返し報道された。でっち上げ写真はいくらでもあった。

当時の写真は日本側、中国側、欧米人が取ったものなどいろいろあって、残虐性を強調するように加工されたものも多く、真偽のほどは判別しがたい。私が18年当時、南京の日本軍総司令部報道部資料室で見た、戦争初期の敵側の写真集には、『日本軍の蛮行』として明らかに手を加えて作られた写真があった。また、当時、報道部で重慶側の新聞を手に入れて読んだのだが、直接爆撃によらず、一万人近くが窒息死している。 『ヒマラヤ上空を行くわが爆撃機』という写真は、冬の日本アルプス上空で撮影された。3機編隊の写真が、数十機の大編隊に化けたりしていた。どこの国でも敵ばかりか、自国民を欺くことに懸命だったのである。

逆に小林氏は、修水渡河作戦での毒ガス写真の間違いを指摘しているが、確かに写っているのは毒ガスではなく煙幕だ。しかしその前に毒ガス弾を撃ち込んで敵を沈黙させている。

この作戦を経験してから現地除隊し特務機関に入った戦友、田中元軍曹の話によると、ガス弾を撃ち込んだ後、煙幕に護られながら上陸すると、敵は夢遊病者のように呆然と立ち尽くし全く無抵抗だったという。

毒ガス工場の従業員の後遺症問題や、中国と日本国内の埋没ガス弾による住民被害が問題になっている状況を見ても、日本軍が毒ガスを全く使用しなかったとは考えにくい。


小林氏はなぜ日本が中国大陸に攻め込んだのか、何故『戦争』ではなく『支那事変』だったのかにも全く触れていない。

昭和12年7月7日、北京郊外蘆溝橋で日中が衝突したとき、中国軍は拡大を恐れて後退したが、日本軍は動員令を発し大軍を北京に送り込んだ。しかし昭和天皇は『局地解決、戦争不拡大』をのぞまれた。宣戦布告には天皇の署名捺印が必要なので『戦争』をする訳にはいかない。だから『支那事変』だったのである。

天皇側近の西園寺公望や牧野伸顕らは、前年起きた2.26事件で暗殺の標的とされた恐怖の記憶があり、軍部に抗しきれなかった。天皇の意思に反し、戦争は事変と名を偽って長く続くことになったのである。

小林氏は朝鮮人強制連行を虚構だという。朝鮮人慰安婦も貧困のために親に売られた娼婦で、中には貯金して故郷に家を建てたものもいるなどと呆れたことを書いているが、何千人もの若い女性が、それも新婚の妻や乳児の母までが娼婦を志願するはずはない。慰安所で乳を搾る慰安婦を見たと言う話も聞いた。蚌埠の街では泥酔して泣き叫びながら憲兵に引きずられてゆく慰安婦を見た。重大な国家犯罪が行われたことは残念ながら事実なのだ。

戦争は勝たねばならん。勝つ為には何をしてもかまわん。我々は天皇陛下の御為に戦っているのだ。天皇陛下のご恩は地球より重く、お前らの命は鴻毛より軽い。しかし戦死すれば靖国の神と祭られ、天皇陛下に拝んでいただける。有り難いことではないか。上官の訓示だ。信条を疑わず前へ突き進んだ姿は、現在のイスラム過激派戦士たちと比すこともできるだろう。

当時の日本軍は、戦後育った人々には到底想像のつかないものだったと思う。小林氏は「勝っている戦争はカッコ良い」というが、勝ち続ける戦争などない。米英と戦争を始めて半年間、日本はカッコ良い戦争をした。

その後はカッコ悪いことの連続。神風特攻隊を考え出した軍首脳に至っては、最悪だった。純粋で有能な多くの若き人材を失わせた罪を、彼らはどう償っただろうか?戦後、特攻隊員の遺族達は、彼らの犠牲をどう捉えたろうか。

東京が焼け野原になり、原爆が二つも落ちるまで戦争終結をさせなかった軍首脳は敵に対してよりも、自国民に対して戦犯だった。

日本は神武天皇以来初めて外国に敗れるという屈辱を味わい、三百何十万の日本人が苦しみもだえて死に、非常に多くの他国民の命を奪った。

戦後の食糧難で餓死者を出し、戦災孤児は街を徘徊し、負傷した帰還兵は失った手足をさらしものにして街で物乞いをした。

日本はカッコ悪さの極みだった。戦争をカッコ良いなどと言って欲しくない。

昭和12年7月、昭和天皇の意思に従って、『支那事変』を思い留まっていたなら、時代はどう転換していたろうか? 欧米列強にいじめ抜かれても、国力を温存して対応する手段はあっただろう。あれほどの人材となけなしの資源を戦場に浪費しなければ、たとえ一度は戦うことになったとしても、あんなにまで惨めな敗戦はなかったと思う。この戦争は日本にとってカッコ悪さの極限だった。

今我々が平和を願うのは当然である。必要なのは戦わない勇気なのだ。

仏教では不殺生戒が基本である。キリスト教も同様に説いている。無神論者には説得力がないだろうが、相手を殺さない姿勢が我が身を守る。

以上、小林よしのり氏への反論である。

私は決して日本だけが悪者だったと言うつもりはない。当時、欧米列強の横車でアジア各地は踏みにじられ、資源の乏しい日本は身動き取れなくなる恐れがあった。しかし軍部の暴走は結果を悪くしただけではないか。もっと国益を冷静に考える賢い指導者が欲しかった。----(引用終わり)

*太字・強調などは、私(ink)が行っています。
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(劇画『戦争論』への反論が書いてありますが、引用したのは、劇画の作者への批判をするつもりではなく、なぜ最近は戦争の美化が当然のように行われているのかについてのヒントが含まれると思ったからです。
目的には確かに正当な部分があったでしょうし、特攻隊員の覚悟などは涙が出るほど清らかな心があると思う。でも、早期に戦争を終結させなかった事は、どう考えても失敗だと思う。)
 
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 = 目   次 = 
(目次は「96歳の遺言サイト」内の中谷弘子さんの部屋の
「日中戦争の中の青春」の目次にリンクしています。)


【前書き】

 はじめに 

 続・はじめに

 当時の中国について

 劇画『戦争論」への反論

 劇画『戦争論」への反論について

 

【本文】

第1話  南京には野犬の大群が

第2話  砲弾の洗礼

第3話  「住職」柱松大尉と四川省の5人の若者

第4話  心優しい反戦論者小堺兵長の死

第5話  南京中央大学に失望

第6話  敵のスパイと親友になって戦闘をとめた話 

第7話  泥酔した従軍慰安婦

第8話  地雷に遭って重傷を負う 

第9話  アルコール燃料蒸留に成功する 

第10話 東洋鬼になりきった男 

第11話 子煩悩な兵隊

第12話 あきれ果てた机上の空論

第13話 素晴らしい女性たちとの出会いと別れ

      【恋の芽生え】【女性布教師 王さん】

      【終戦前後】 【結婚を目指して】 

      【地獄で仏】【悲しい別れ】

      【家族との再会】【訣別】


番外編  
動物の思い出

     

【エッセイ】

1.暴支膺懲(ぼうしようちょう)

2.鉄道の線路を持ち去った日本軍

3.外交戦で勝てない日本

4.悲運の熱血政治家 汪兆銘
5.中国の作家、謝冰心さんの思い出
6.知っておきたい日本の歴史


◇  ◇  ◇
「96歳の遺言〜戦争だけはやっちゃダメ」
サイト制作・編集:山上 郁海

 中谷 久子さんのブログ『80代万歳!』
渋っておられたお兄様を説得して、この物語を世に送り出すことに成功した妹さんのブログ

 ブログ版 日中戦争の中の青春
他のエピソードなどの加筆があり、読み応えあるブログです。
日中戦争の事を、硬い書物で読んでも複雑すぎて嫌になりますが、
実体験が加わっていると、興味深く読めます。

そして誰が悪いとか、いや正義だったとかはもう終わりにすべき。
当時の日本人の思いに心を寄せるなら、
絶対に逆戻の可能性のある発想はあり得ない。
犠牲者こそ、勇敢に戦った人こそ、
同じ方法(軍事力)で国を守る事の限界に気づいているだろう。


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